長野地方裁判所諏訪支部 昭和50年(ワ)61号 判決 1978年8月24日
原告 栗山光則
右訴訟代理人弁護士 井上恵文
右同 大嶋芳樹
右同 西村孝一
右同 吉岡寛
被告 牛山正己
被告 寺島清七
右両名訴訟代理人弁護士 早出由男
主文
原告と被告牛山正己間において両当事者間の諏訪簡易裁判所昭和四九年(ノ)第八号慰藉料等調停事件について、同年八月七日成立した調停は無効であることを確認する。
被告牛山正己は原告に対し五〇万円とこれに対する昭和五〇年六月二五日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。
原告のその余の請求をすべて棄却する。
訴訟費用はこれを三分し、その二を原告のその一を被告牛山正己の各負担とする。
この判決は、二項、四項のうち原告勝訴部分に限り仮に執行することができる。
事実
第一、双方の申立
原告
原告と被告ら間において、両当事者間の諏訪簡易裁判所昭和四九年(ノ)第八号慰藉料等調停事件について同年八月七日成立した調停は無効であることを確認する。
被告らは各自原告に対し五五〇万円とこれに対する昭和五〇年六月二五日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。
訴訟費用は被告らの負担とする。
第二、三項につき仮執行の宣言。
被告ら
原告の請求をいずれも棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
第二、請求の原因
一、事故の発生及びその後の経緯
(一) 原告は、昭和一八年春頃、徴兵検査を前にして、内科医被告牛山正己(以下被告牛山と言う)医院に於て被告牛山の診察を受けた際、被告牛山は原告の肋膜に水が溜っていると判断し、その水を取る為、原告の左後胸部に注射針を挿入したが、右施術中、注射針を折ってしまい、右折針が原告の胸中に残留した。その為、原告は激痛に見舞われ、呼吸困難に陥ったので、これに当惑した被告牛山は、原告を外科医被告寺島清七(以下被告寺島と言う)医院へ連れて行った。
(二) 被告寺島は、被告牛山及び原告の父栗山鶴助立会の上、原告の胸中に残留した折針を摘出する為、原告の左後胸部の切開手術を施した。被告両名は施術後、原告に対し、「針は取れた。大丈夫だ、しっかりしろ。」と言ったので原告も一安心し、その後約一〇日間被告寺島医院に入院して治療を受けた。
(三) 退院後約三〇年間、原告は胸部の痛に悩まされ続けたが、各所の病院で肋間神経痛等と診断され、原告は手術の傷跡が痛むのだろうと諦めていた。ところが原告は昭和四七年一〇月頃から三九度以上の高熱が出て、これが幾日も続いたので、各所の病院で診察してもらったが原因が分からず、たまたま昭和四八年一月一八日岡谷市内白井内科医院で診察を受け、胸部のレントゲン写真を撮ったところ、原告の左胸部に折れた注射針が入っていることが確認された。
四 この診断に驚いた原告は、その後諏訪赤十字病院、東大病院、上諏訪病院その外二、三の病院に通って診察を受けたが、どの病院でも折針の摘出手術は生命の保障が出来無いとして、同手術の実施を拒否された。原告は、右折針が胸部に残留しており、然も死の危険なしに折針の摘出手術をすることは不可能であることを知ってからは、原告は死の危険を冒して折針の摘出手術をしてもらうか、又は危険な手術をせずに死に至るまで「針」の恐怖におびえて暮すかの選択を迫られ、神経が異常なくらい敏感になり、胸部の痛みは勿論、睡眠不足と共に身体の諸々に障害を来たし、病院通いが当り前のようになって、仕事も満足に出来無いような状態になってしまった。
二、調停無効の主張
(一) このような状態であった同四九年三月一五日、原告は被告らを相手方にして、慰謝料金三〇〇万円及び病状悪化の際の手術、治療費等の支払いを求めて、諏訪簡易裁判所昭和四九年(ノ)第八号慰謝料等請求の調停を申し立て、同年八月七日右当事者間に左記内容の調停が成立した。
記
1、原告に対し、本件示談金として被告牛山正己は金四〇万円、被告寺島清七は金一〇万円の各支払義務を認め、被告らは、それぞれ前記金額を、昭和四九年八月二〇日限り新潟相互銀行諏訪支店の原告の普通預金口座に振り込んで支払う。
2、本件に関して原告は今後一切金銭上の請求をしない。
3、原告はその余の請求を放棄する。
4、調停費用は各自弁とする。
(二) 錯誤による無効
原告は、右調停に於て被告代理人早出由男及び調停委員武井三郎、同長崎政寛から、右調停申し立てにかかる慰謝料等の請求権は時効期間徒過により消滅しており、原告は被告らに対し右請求権を有しないが、原告が示談に応じれば、被告らは見舞金として被告牛山が金四〇万円、被告寺島が金一〇万円を支払う用意があるが、右金額で調停を成立させてはどうかとの説得を受けたので、原告は右慰謝料等請求権が時効により消滅してしまったものと信じ、やむを得ず前記内容の調停成立に応じたものであるが、後になって右慰謝料請求権は時効により消滅していなかったことが判明した。原告は、もし右の時効消滅の点について錯誤が無かったならば、前記調停条項のような内容の約定をしなかったものであるから、右の意思表示は要素の錯誤があり、無効である。
三、被告らの責任
(一) 被告牛山は、原告に対し肋膜の水を取る為に注射針を原告の左後胸部に挿入して折針した際、被告ら両名は寺島医院に於て、被告寺島執刀のもとに右折針の摘出手術(左後胸部約二〇糎程度を切開)を施し、実際は右折針を原告の胸中から摘出しなかったにもかかわらず、原告に対し右折針が摘出されたとの虚偽の報告をし、もって原告の胸中から折針を摘出する義務を怠ったばかりか前記の如く原告の体内に折針を放置しながら故意に、除去したと報告して、原告を折針による、身体に対する傷害行為を継続したものである。即ち、被告ら両名は原告と同市内に居住していたのであるから、いつにても原告に対し、折針は除去してなく原告の体内にある旨真実を告げて、折針を除去ないし除去する機会を与えるべき義務があるのに、原告の不知を奇貨としてその傷害行為を継続した過失がある。従って、被告らは民法七〇九条、七一九条に基づき原告に生じた損害を賠償する義務がある。
(二)1、被告は注射針が原告の胸部に残留するという事故が発生したのは、被告牛山の過失によるものではなく、注射器または注射針の製造が悪かったからである旨主張する。昭和一八年当時は、現在に比較すれば医療器具は粗雑なものがあったことは考えられないではないが、被告が主張するほど欠陥品が多かったとは言えず、またそのため注射針が折れて患者の体内に残留するという事故が多数発生したという事実はない。
2、仮に被告牛山が原告に対し使用した注射器または注射針が欠陥品であったというのであれば、被告牛山は原告に対し右注射器および注射針を使用する前に、医師として当然右注射器および注射針を点検して、その安全を確認する義務があったものである。被告主張の如く単に新品の注射針を使用したというだけでは全く不十分であったといわざるを得ない。ことに、被告が主張するように当時粗雑な製品が多かったというのであれば、ますます被告に対しては、右注射器及び注射針の使用前の安全確認義務の励行が要求されたのである。
3、本件折針事故は、被告牛山が原告の左後胸部に注射針を挿入する際の不注意により発生したものであるが、仮に被告主張のように本件注射針と注射器に接続させる金具との熔接が不完全であったとしても、本件事故が発生したのは被告牛山が右注射針および注射器を使用する前に点検し、その安全を確認する義務を怠って漫然これを使用した過失によるものである。いずれにせよ、本件折針事故は被告牛山が医師として当然なすべき注意義務を怠ったため発生したものである。
4、被告は、原告の胸部内に針が残留しても、やがては針を中心に肋膜が肥厚し、残留した針が移動することはなく、疼痛が残ることも考えられなかったので危険をおかさないことが最上の方法と考え、針の摘出を断念した旨主張する。しかし、右主張はすでに事実によって覆されている。すなわち、残留した針の移動については、原告は諏訪赤十字病院の友野医師から「今に心臓に刺さるおそれがある」との診断を受け、疼痛についても原告は被告寺島の手術を受けて以来しばしば痛みが出て苦しんだが、原告は手術の傷跡が痛むのか神経痛であろうと考え、病院に通院したり薬を飲んだりして痛みに耐えて来たのであるが、昭和四七年一〇月頃からは高熱が出て痛みも激しくなり仕事も出来ない状態になった。
また、被告は針の摘出が危険であり不可能であったと主張するが、被告らはいずれも個人医院の経営者であったのであり、当時他に多くの専門医を擁する大病院が多数あったのであるから、被告だけで針の摘出は不可能と軽卒に判断せず、他の専門医ないし大病院に原告を紹介して針の摘出手術を受ける機会を与えるべきであったのである。事故当時は、折針が体内に入った直後であり、その所在場所も顕著で、回りの肉も固まっておらず、昭和五〇年三月四日(本件折針が摘出された日)当時に比較すれば、針の摘出手術は容易だったのである。
5、被告は、原告に対し真実を告げなかったのは、癌の患者に真実を告げないのと同様原告に不安を起させないため、むしろ真実を秘匿することが義務であり、原告の父には真実を告げた旨主張する。しかし、この主張も失当である。まず、癌の患者に真実を告げないのは、癌の患者は死が決定していることから患者に真実を告げて徒らに不安を起させるより、これを秘匿して安らかに余生を過させようとの目的から正当化されるのであるが、本件はこれとは全く異なり、単に体内に折針が残留した事故に過ぎず、死が決定した事故ではないのである。
被告としてはむしろ積極的に原告に真実を告げ、他の専門医ないし大病院を紹介するなり、本人に他の病院での受診を勧めるなりして一日も早く針が摘出されるよう適切な措置を取るべきであったのである。被告が右のような措置を取っていれば、原告がその後三〇年以上も苦しみ続け、事故後三二年も経過した昭和五〇年三月四日に危険な折針摘出手術をあえて死を覚悟してまで受ける必要もなかったのである。これらはいずれも被告らが折針の摘出を怠たりこれを原告の胸部に残留せしめ続けた継続的不法行為によるものである。
次に、被告らが原告の父に真実を告げたとの主張は虚偽である。まず、これまで被告らは右のような主張をしたことは一度もなく、諏訪簡易裁判所における調停の席においても被告らは原告(申立人)の主張を認めていたのであるが、被告らは昭和五一年一月二〇日付準備書面において突如右のような主張を始めたのであって、右主張の経緯は甚だ明朗さを欠くものである。被告らは手術失敗後原告とその父の面前で「針は取れた」と報告したのであり、原告はもちろん、原告の父もその旨信じていたのである。それだからこそ、原告の父は、原告から昭和四八年一月一八日原告が白井内科医院でレントゲン写真を撮った結果折れた注射針が原告の左胸部に残留していることが判明したことを聞いたとき、原告に対し「あの時たしか寺島医師ははっきり注射針は取れたと云ったが、針はまだ残っていたのか、困ったことになった」と言ったのである。
6、被告は、本件事故後、原告が診療を受けに来たり、医療行為の内容を問い合わせる等のことがないのに、針の摘出ができなかったことを積極的に原告に伝える義務はない旨主張する。しかし、これは医師たる者の主張とは到底思われない暴論である。医師法一条によれば、医師の職分として「医師は医療及び保健指導を掌ることによって公衆衛生の向上及び増進に寄与し、もって国民の健康な生活を確保するものとする。」と規定されている。ところが被告らは義務に違背して原告の胸部に折針を残留せしめ、原告に対する傷害行為を継続したのであるから、その職務として単に手術の結果を告げるばかりでなく、可及的速やかに右折針を摘出するか、他の医師をして右折針を摘出させる措置を取る義務が当然あったものである。ところが、被告らは右の措置を取るどころか、かえって針は取れた旨虚偽の報告をして原告らをその旨誤信させ、もって右折針摘出の機会を原告から奪ったのであるから、被告らの行為はまさに医師にあるまじき、言語同断の行為であったとしか言いようがないのである。被告らの行為は継続的不法行為であり、これによる損害も日々新たに発生しているから、同人らの右義務は診療録の保存義務が五年間とされていることとは全く関係なく、原告の体内から折針が摘出されるまで続くのである。
(三) 被告らは原告の胸部から折針を摘出する義務を怠たり、その上原告に対し右折針が摘出されたと虚偽の報告をして原告をその旨誤信せしめ、原告の胸部に右折針を残留せしめ、もって原告に対する傷害行為を継続したものであるから、被告らの行為は講学上のいわゆる継続的不法行為にあたる。右は、あたかも不法占有と類似の行為であって不法行為が継続し、損害もまた日月継続して新たに生じているのである。
したがって、被告らの右不法行為及びこれによる損害の発生が終了したのは原告が虎ノ門病院で右折針を摘出した昭和五〇年三月四日であるから、被告が主張する消滅時効の抗弁は理由がない。
(四) 仮に被告の消滅時効の抗弁が成立するとしても、これまで詳細に述べて来たように被告らが医師であり患者を治療して健康体にするのがその業務であること、ところが被告らは右業務に違背し過失により原告の胸部に折針を残留させ、その上右折針の摘出を怠って、原告に対する傷害行為を継続したこと、被告らは当然右折針を摘出するか、他の医師に嘱託して摘出してもらうかして被害の発生を防止する措置を取る義務があったのに、故意に右義務の履行を怠ったばかりか、かえって原告らに折針摘出手術は成功した旨虚偽の報告をして、原告らにその旨誤信させて同人から折針摘出の機会を奪ったこと、そのため、原告は三〇年以上も原因不明(真実は折針が原因)の痛みに苦しめられ、昭和四八年一月一八日にはじめて折針が胸部に残留していることを知らされてからは、昭和五〇年三月四日石折針が摘出されるまで、苦痛と死の恐怖におびえ、悩まされつづけて来たこと等、本件事案に見られる被告らの行為の反倫理性および原告の被害の重大性を考慮すれば、被告の主張する消滅時効の抗弁は権利の濫用であって到底許されるものではない。
四、原告の受けた損害
原告は被告の不法行為により約三〇年間も胸部の痛みに悩まされ続けたが、特に昭和四八年一月一八日白井内科医院でレントゲン写真を撮った結果胸部に折針が残留していることが判明してからは、ショックのあまり夜も眠れない状態となり、原告は必死で諸方の病院を回って診察を受けたが、どこも折針の摘出手術が余りに危険なために手術を引き受けてくれる病院がなく、赤十字病院内科の友野医師からは折針を放置すれば「今に心臓に刺さるおそれがある」と注意されるなど、原告は生きた心地もなく不安な日々を過すようになってしまった。この間原告は被告らを相手に昭和四九年三月慰謝料等請求の調停を申し立て、同調停は同年八月七日一応成立したが、その後も原告の症状が好転するわけではなく、原告は胸の苦痛と死の不安にさいなまれつづけた。そして、ようやく昭和五〇年二月二四日虎ノ門病院で診察を受けたところ、初めて担当医師から「針は取れる。直ぐ入院の手続きをしなさい。」と言われ、原告もこのまま死の不安にさいなまれて生きるよりも、例え手術の結果死ぬことがあっても折針の摘出手術を受けようと意を決し、同年二月二八日虎ノ門病院に入院し、翌三月四日手術を受けた。手術は幸いにして成功し、原告は無事折針を摘出することができたのである。この手術成功の報せを聞いたときの原告の喜びはいかばかりであったか語るべき言葉を知らないが、反面右折針摘出に至るまでの長期の間原告の被った精神的苦痛は真に筆舌に尽し難く、また物質的損害も甚大であった。原告が被ったこのような損害を金銭で償うことは到底できないが、仮に右損害を一括して慰謝料として金銭で見積もるとすれば、六〇〇万円を下るものではない。
原告は被告牛山から金四〇万円、同寺島から金一〇万円を前記無効の調停の示談金として受領しているので、原告は本訴状をもって原告の被告らに対する右各金員の返還債務と被告らの原告に対する本件慰謝料支払債務とを対当額にて相殺する旨意思表示し、結局被告らが原告に対し支払う義務のある慰謝料は金五五〇万円となる。
五、結論
そこで原告は前記調停の無効確認、及び被告らに対し慰謝料として各自金五五〇万円並びに右金員に対する本訴状送達の翌日たる昭和五〇年六月二五日から支払い済みまで年五分の割合による民法所定の遅延損害金の支払いを求める。
第三、請求原因に対する答弁
一、(一) 請求原因事実一、(一)のうち被告牛山が注射針を折ったこと、原告が激痛に見舞われ、呼吸困難に陥ったことを否認し、その余は認める。
(二) 同一、(二)は認める。
(三) 同一、(三)のうち原告が退院後約三〇年間胸部の痛みに悩まされ続けたことは否認し、その他は不知。
(四) 同一、(四)のうち原告の精神的、肉体的障害が、原告の胸部に残留する注射針が原因であることは否認し、その余は不知。
二、(一) 同二、(一)は認める。
(二) 同二、(二)のうち、被告代理人および調停委員が原告に対し、原告主張のとおりの説得をしたことおよび原告が調停成立に応じたことを認めその余は否認し争う。なお前同人らは原告に対し、右のほか民法第七二四条後段の除斥期間を経過していることおよび被告らの無過失を主張した。
三、(一) 同三、(一)のうち、被告牛山が原告に対し肋膜の水を取るために注射針を左後胸部に挿入したこと、被告両名が寺島医院において被告寺島執刀のもとに注射針の摘出手術を施し実際は右針を原告の胸部から摘出しなかったこと、原告に対し、針の摘出はしなかったが、摘出したと報告したことは認め、その余の同三、(二)の1ないし6は否認し争う。
(二)1、被告牛山が昭和一八年春ころ、医療行為として原告の左胸腔に注射針を挿入したところ、その注射器に接する部分から針が抜けて胸部に針が残留するという事故が発生したが、針が注射器から抜けたのは、被告牛山の過失ではなく、右注射器又は注射針の製造が悪かったからである。当時は第二次世界大戦の最中で、国内における医療器具は不足がちで、粗雑なものが多く、そのために被告牛山は胸腔内穿刺をする際には、必ず新品の注射を用いたのにもかかわらず、注射器の接属部分から針が抜けたのであって、針と注射器に接属させる金具との熔接が不完全であったものと考えられる。
2、被告牛山は、右針が原告の胸部に残留してしまったので、直ちに被告寺島に右針の摘出手術を依頼し、同人はこれを実施したが、残留した注射針は胸部深部にあって、これを除去するためには、胸腔内に穿孔する極度の危険性があり、当時の医学知識としては、胸腔内を切開すれば患者は死の転帰をとるとされていたため、それ以上深部を切開することができなかった。一方胸部内に針が残留しても、やがては針を中心に肋膜が肥厚し、残留した針が移動することはなく、疼痛が残ることも考えられなかったので、あえて前記危険をおかさないことが最上と考え、針の摘出を断念した。しかし被告らは針が残留していても肉体的には支障がないが、本人は気になるであろうと考えて、原告には針は摘出したと知らせ、原告に付添っていた原告の父には、実際には前記理由により針を摘出することは出来なかった旨知らせておいた。原告の胸部に残留した針を摘出することは当時の水準からいって危険度が大きすぎ、不可能であったのだから、医師としては、真実を告げて不安を起させるよりも、むしろこれを秘匿することが義務であると考え(癌の場合と同様)、原告の父にだけ真実を知らせた。
3、原告が被告らと同一市内に居住していたか否かを問わず、被告らは、その後原告が診療を受けに来たり、前記医療行為の内容を問い合せる等のことがないのに、針の摘出ができなかったことを積極的に原告に伝える義務はない。ちなみに医師の診療簿の保存義務は五年間とされており、かつ被告らの前記医療行為に過失のないことからいって当然である。
(三) 仮に被告牛山が注射針を折針しかつ被告寺島と共に右折針の摘出手術をしたが摘出し得なかったのに原告に対しては、摘出したと虚偽の報告をしたことが不法行為であるとしても、右行為は昭和一八年春頃のことであるというのであるから、これより二〇年を経過した同三八年五月にはその損害賠償請求権は時効により消滅しており、前記調停でも援用していたから、調停は無効ではない。
四、同四、のうち原告が調停の申立をし、これが成立したことは認めその余は否認し争う。
五、同五、は争う。
第四証拠関係《省略》
理由
一、当事者間に争いのない事実
(一) 原告が昭和一八年春頃、徴兵検査を前にして、内科医被告牛山医院において被告牛山の診察を受けた際、被告牛山は原告の肋膜に水が溜っていると判断し、その水を取る為、原告の左後胸部に注射針を挿入したが、右施術中、注射針が(折れたか抜けたかは後記のとおり)、原告の胸中に残留したこと、当惑した被告牛山が、原告を外科医被告寺島医院へ連れて行ったこと、
(二) 請求原因事実一、(二)の事実、
(三) 同二、(一)の事実、
(四) 原告が、調停に於て、被告代理人早出由男及び調停委員武井三郎、同長崎政寛から、調停申立にかかる慰藉料等の請求権は時効期間徒過により消滅しており、原告は被告らに対し右請求権を有しないが、原告が示談に応じれば、被告らは見舞金として被告牛山が金四〇万円、被告寺島が金一〇万円を支払う用意があるが、右金額で調停を成立させてはどうかとの説得を受けたので原告が調停成立に応じたこと、
(五) 被告両名が寺島医院において被告寺島執刀のもとに注射針の摘出手術を施し、実際は右針を原告の胸部から摘出しなかったこと、原告に対し、針の摘出をしたと虚偽の報告をしたこと、
二、《証拠省略》によると、原告は、諏訪簡易裁判所昭和四九年(ノ)第八号慰藉料等請求の調停において、被告らに対する慰藉料等請求権は時効により消滅してしまったものと信じ、また調停委員会並に被告らもこれを前提として請求原因事実二、(一)の調停を成立させたものであることが認められる。
そうだとすれば、原告の被告らに対する慰藉料請求権が時効により消滅していない場合は、調停において争いの目的となった権利の存否(これに直接関わるものであるが)の前提事実たる時効の完成について原告に錯誤があったことになり、原告は民法六九六条にかかわらず、調停の無効を主張し得るものと解せられる。
三 本件事故について、
(一)1、《証拠省略》によると、被告牛山が原告の胸部に残留した注射針は、虎の門病院医師加藤彰によって昭和五〇年三月四日摘出された際、原告の左胸腔内にあり、一部肺にささっており折れて長、短二つになっていたこと、長い方が針の先端部分で、現在存在しており、短い方が針の根元の方で、これを原告は紛失してしまっている(と供述している)ことが認められる。
摘出された針の根元の方を検すれば、原告主張の如く針が折れたものか被告牛山主張の如く、針が注射器の接属部分から抜けたものかを容易に決し得ると思われるが、原告からこれが提出されず亦摘出医師の摘出の際の針状の況について証言もない。従ってこの点は以上の理由および弁論の全趣旨により被告牛山正己本人尋問の結果を採用し被告牛山の主張事実を真実と認めざるを得ない。
2、被告牛山正己本人尋問の結果中には、被告牛山は肋膜に水が溜っているか、肋膜肥厚かを検するため穿刺をなす決意をし、事前に、注射針が注射器から抜けるかどうか強力に引っぱってみたが自分の力では抜けなかった、局所麻酔をして穿刺し、注射器の内筒を引いたところ、針だけが力なくスポンと原告の体内に抜け落ちた、注射器には針を止める丸い部分だけが付いていた、針は筋肉の中に影をひそめるような状態でつかめず、自然に吸い込まれるように埋没してしまった、原告の肋膜肥厚の針を握む力が事前に検した自分の二本の指の力より強かったと思う、当時注射器や注射針が粗悪になっていた、穿刺するには新しい針を用いたとの部分がある。
前記1、のとおり、本件注射針は、注射器から抜けて原告の体内に残留したと認めざるを得ず、かつ被告牛山の右供述を借信できないとする直接の証拠はない。しかしながらその供述を前提としても、「肋膜肥厚を予想しつつ穿刺し、注射器の内筒を引いたところ、針だけが力なくスポンと原告の体内に抜け落ちた」ということからすれば、事前に器具を仔細に点検したか疑問があり、「針は筋肉の中に影をひそめるような状態でつかめず、自然に吸い込まれるように埋没してしまった」ということからすれば、穿刺の際、注射針は原告の左後胸部体内に全部刺し込まれ、注射器の外筒は体に強く押えつけられる状態で内筒が引かれるという操作がなされたものと窺え、かかる操作の前提として、医師たる被告牛山は注射針が注射器から抜けないように注射針と注射器との安全を十二分に確認する義務を怠ったものというべきである。肋膜肥厚が予想されたのであり単に二本の指で引ぱってみた程度では足りず、当時粗悪品が多いとすれば、その状況下でこれを前提として更に安全確認義務を要求されることは、人命をあづかる医者としては、已むを得ないものと解すべきである。
3、そうだとすれば、被告牛山は、医師として前記の注意義務を怠った為、原告の左胸腔に注射針を挿入した際、注射器に接する部分から針が抜けて胸部に針が残留するという事故を発生せしめたものである。
(二) 被告寺島が原告の体内に残留した注射針の摘出手術を断念したことについては、その当否を判断する資料は、これを是とする被告寺島清七本人尋問の結果しかない。
《証拠省略》によれば、被告寺島は、手術後、原告に対し、真実は注射針の摘出ができなかったのに拘わらず、「針は取れた」と虚偽の報告をなし、また、右手術に立会った被告牛山も右報告を了として容認していたもので、右虚偽の報告を為すことは被告寺島と被告牛山とが相通じていたものと認めることが出来る。
被告らは、原告の父には真実を告げたと主張し、被告寺島清七本人尋問の結果中にはこれに沿う部分もあるが、《証拠省略》に照し信用できない。さらに被告らは癌の患者に真実を告げないのと同様原告に不安を起させないため、むしろ真実を秘匿することが義務であったと主張するが、被告寺島清七本人尋問の結果によるも、「針があるということで神経を刺戟し神経質になったら困る」という程度のものであって、秘匿義務があるとは断じ難くむしろ被告らは原告に対し針を摘出できなかったことを身勝手に秘匿し、さらに積極的に虚偽の報告をしたものである。
従って、被告らが相通じて原告に対し、真実を秘匿し、「針は取れた」と虚偽の報告をしたことは原告に対する不法行為となる。原告は、被告ら特に被告寺島に対し、真実告知義務が継続的に存するが如く主張するが、右義務は当該患者に対する治療行為が終了する迄の間のみ存するものと解すべく《証拠省略》によれば、原告は被告寺島医院を手術後一週間か一〇日で退院し、その後は来院したことはないことが認められるから、これ以後は、真実告知義務は存在しないものというべきである。
また、原告は、被告らが真実告知義務に違背し、虚偽の報告をなし、原告から針摘出の機会を奪い原告の胸部に針を残留せしめ原告に対する傷害行為を継続したもので、その損害も日々継続して新たに生じていると主張する。真実告知義務が継続的なものでないことは前記のとおりである。
注射針が昭和一八年春頃被告牛山によって原告の胸腔内に残留せしめられ、被告寺島の摘出手術後も原告の胸腔内に残留していたことは争いがなく《証拠省略》によると、原告は高熱が出て昭和四八年一月一八日、岡谷市内白井内科医院で偶々レントゲン写真を撮ったところ、左胸部に注射針が入っていることを発見し、その後、数件の病院で同様の診断を受け、同五〇年二月二八日、虎ノ門病院に入院し、同年三月四日、医師加藤彰によって注射針が摘出され同月一五日退院し、その後四月、五月、一二月と三回通院し全快したことが認められる。
右事実によれば注射針は昭和一八年から同五〇年三月四日まで原告の胸腔内に残留を継続していたものであるが、本件全証拠によるも、原告が注射針が胸腔内に残留することによって現実に苦痛を味わっていたか、その主張する神経痛と残留針との因果関係については明らかではなく原告本人尋問の結果によっても未だこれを確証し得ず、むしろ、《証拠省略》によると原告は昭和四八年一月一八日に、注射針が自己の胸腔内に残留していることを知ってから以後において、手術の困難さ、針の移動という不安の為に精神的な苦痛を味わうに至ったものであることが認められる。
従って、注射針の残留事実は相違ないが、これによって損害が継続的に発生していたものとは認め難い。また、注射針を残留せしめたこと自体不法行為ないし損害の継続的発生と考えることについては、身体の原状回復請求権というが如きことは貫徹し得ないものであるし、被告牛山は前記の如き過失により注射針を原告の胸腔内に残留せしめたのであるから、当時これが摘出可能であれば予想し得る摘出に至るまでの損害並にこれを前提としての各損害、摘出が不可能であれば、これ亦これを前提としての予想しうる損害を賠償する義務があるとはいえ、注射針を摘出除去すべき積極的義務があるとはいえず、従って注射針が胸腔内に残留していることを不法行為ないし損害の発生と考えることはできない。また被告寺島は、被告牛山ないしは抽象的に原告の委託を受けて注射針の摘出手術をしたが、手術に最善を尽す義務はあるとはいえ、必ず針を摘出するという結果を生ぜしめる義務があるとまではいえない。《証拠省略》によると、被告寺島は針の捜索中メスで肺組織を傷つける危険が大きく、気腔を生ずる虞があると判断し、手術を中断したこと、循環麻酔器が使える様になったのは昭和四〇年以後で、それ以前は、肺の手術はできず気腔が生ずると生命に危険があったことが認められる。従って、被告寺島が針の摘出手術を中断したことを責めるに足りる証拠はない。
前記の如く被告寺島と被告牛山とが相通じて、原告に対し「針はとれた」と虚偽の報告をしたことは、不法行為を構成し、原告から真実を知る権利を奪ったが、原告がこれを知った場合、当時これを摘出除去する手術が可能であったかは明らかではないし、被告寺島について針の残留そのものを不法行為ないし損害の発生と認め得ないことは被告牛山の場合と同様である。
(三) 以上のとおりで、本件を損害賠償請求という観点から考察するに、要するに、被告牛山は、医師として、肋膜肥厚が予想される原告の胸腔内に注射針を穿刺する際、注射器と注射針との安全性を十二分に確認する義務を怠った過失により、注射針を原告の胸腔内に残留せしめたもので、原告に対しこれに伴う予想し得る一切の損害を賠償すべき義務があったところ(第一の不法行為)、被告牛山と被告寺島とは相通じ、被告寺島が右注射針の摘出手術をした際、真実は、針を摘出できなかったのに「針はとれた」と虚偽の報告をなして原告を欺き、被告牛山に対する賠償請求の適正行使の機会を奪い(第二の不法行為)、原告はその後格別支障なく年月を過したが昭和四八年一月一八日に至り、偶然自己の胸腔内に除去されたと思っていた針が未だに残留していることを知ってショックを受け、以後同五〇年三月四日針が摘出されその後完快するまで、精神的苦痛を味わい、診断、手術に伴う若干の物的損害を受けたということになる。
そうだとすると、被告牛山の第一の不法行為、および被告牛山、被告寺島の第二の不法行為の行為時は、昭和一八年春頃であり、第一の不法行為の結果生ずべき針の残留並びに摘出に伴う現実の損害が、不法行為時から三〇年余も経過した後に発生したもので、右損害は、通常は第一の不法行為の当時当然予想し得る損害であり、原告が被告牛山に対し、その損害を請求したのは昭和四九年三月一五日であるから抽象的な損害及び加害者を知ったときから三年、不法行為の時から二〇年をいずれも経過し、その損害賠償請求権は時効により消滅しているといわなければならない。とはいえ、原告は、被告らの第二の不法行為により、「針はとれた」と欺かれたため、針の残留並に摘出に伴う損害は最早ないものと信じたものであり、従ってこれが請求をなさなかったことは自然の成行きであって権利の上に眠るものではなく第二の不法行為によって眠らされてしまったものである。かかる場合、現実の損害の発生を知って目覚める他ない。他方各不法行為の時から優に二〇年を経過しており、継続した事実の尊重と証拠の散逸による被告の反証の困難性を救う時効制度の趣旨に則っとるべきところはあるが、被告牛山は第一の不法行為をなして原告に対し損害賠償義務があるにも拘わらず第二の不法行為によって積極的に原告の右権利行使を妨げ歳月を経過させたものであって、被告牛山は、自らに対する請求権を時効にかかる様に工作しておいて時効完成を主張援用することになり、時効制度の本来の趣旨に反し、諸般の事情特に医師としての社会的責任を考慮するときかかることは信義に反し権利の乱用であるというべきである。このことは第二の不法行為について時効が完成していても、さらには、原告が被告らから真実を知らされていた場合、当時仮に針の摘出手術が客観的に可能でなかったとしても(その証明は未だ十分ではない)、公平の観点に照し結論を左右しないものと考える。被告牛山は時間の経過による証拠の散逸については、第二の不法行為をなした時に自ら覚悟したものと解せられ、時効利益を享受しえないとしても已むを得ない。
(五) そうだとすると原告が、被告牛山が第一の不法行為について時効は完成したが、これを援用しえないのに援用しうることを前提に前記調停をなしたことは錯誤に基づくものであり、該調停は被告牛山の関係で無効である。
四 損害について、
前記三、(二)、(三)のとおり、原告の受けた損害は、昭和四八年一月一八日注射針の存在を発見してから、同五〇年三月四日針が摘出され、その後完快するまでの間に受けた精神的苦痛に対する慰藉料ということになりこれが請求の範囲内である。前記認定のとおり、手術前数件の病院の診断を受けて摘出手術の困難さを知らされ二年余不安に悩まされたこと、虎の門病院への入院は半月、その後の通院は四月、五月、一二月と三回で完快していること、昭和四九年八月には一旦調停が成立し(争いがない)、原告は被告らから和解金五〇万円を受取っていること(原告自陳)、時効の援用は権利の乱用であるとの結論に達したが、実際問題として、事件そのものは昭和一八年という古いものであること等諸般の事情を考慮し、慰藉料の額は一〇〇万円と認めるのが相当である。原告が右損害のうち既に五〇万円が補てんされていることは原告の自陳するところであるから、被告牛山は原告に対し残五〇万円とこれに対する訴状送達の翌日であることが記録上明らかな昭和五〇年六月二五日から支払済まで年五分の割合による民法所定の遅延損害金を支払う義務がある。
五 よって、原告と被告牛山との間において、前記調停が無効であることを確認し、原告の被告牛山に対する慰藉料請求は前記の限度で理由があるからこれを認容することとし、その余の被告らに対する請求はすべて理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用については民訴法八九条、九二条、九三条により、仮執行の宣言については同法一九六条により、主文のとおり判決する。
(裁判官 山崎健二)